会報のつづき

5号(平成12年3月号)・<詩人 白鳥省吾を研究する会>

 ○会報発行にあたって  top  HOME


 V.こぼれ栗 (1)  白鳥省吾の筆名について

  本名は<しろとりせいご>という。郷里築館町図書館、近親者の方々の読みは本名で統一している。新潮社版の書籍では、<しらとりしょうご>と紹介しているものもある。ちなみに「明治・大正詩集」(昭和44年3月25日発行・新潮社)、「現代名詩選」(昭和44年8月25日発行・新潮社)、「大正の文学<近代文学史2>」(昭和47年9月15日発行・有斐閣)、「増補新版日本文学史8・総説年表」(昭和50年11月5日発行・至文堂)、などは<しらとりしょうご>。新潮社版の「日本人名辞典」は両方のふりがなをしている。「別冊太陽近代詩人百人」(昭和53年9月25日発行・平凡社)などは<しらとりせいご>である。

 この他、中学時代の学友会雑誌には「白羽鳥」、投書雑誌、『文章世界』その他に用いていた「白鳥野石」、明治四十一年十二月一日付けの『文庫』に投書していた、早稲田大学時代に用いた「白鳥銀河」、『天葉詩集』(初版)には「白鳥天葉」、文芸春秋の民謡欄を担当していたときに用いた「烏水生」「江南生」などがある。この他にも「彗星」等あるようだが、出自がはっきりしていない。


   こぼれ栗 (2) 

 「荒城の月」の詩碑について 

 朝日新聞二〇〇〇年一月五日号の宮城県内版の中で、「荒城の月一〇〇年」を書いています。ここでは文部省唱歌としての「荒城の月」が無くなってしまうのではないかと、危惧されていました。以前に「荒城の月」のモデルになった城はどこかと問題になったことが有りましたが、白鳥省吾の『晩翠献詩』にその説明がなされているので、3回にわたって紹介しました。


  その 1

 『晩翠献詩』(昭和三十二年十一月十九日・大地舎発行)によると、「荒城の月」詩碑は当時、三ヶ所に建っていたようである。大分県竹田市岡城趾(昭和九年十月十七日建立)。福島県会津若松市鶴ヶ城趾(昭和二十二年六月五日建立)。仙台市青葉城趾(昭和二十七年八月十一日建立)は三番目に建立されている。このあと、岩手県二戸市福岡城趾に建立されている。(『みやぎの文学碑』平成六年五月九日・財団法人宮城県芸術協会発行)

 この詩が収録された『天地有情』が発行されたのが明治三十二年十月十五日。同三十四年に瀧廉太郎の作曲で、文部省から発行された『中学唱歌』に収められている。大分県竹田市岡城趾の詩碑建立のいきさつを省吾は以下のように書いている。抜粋して紹介する。

<竹田市の建碑については、同市の商工観光課長伊東大八氏より次のような報告をしていただいた。

一、石碑は岡城趾の南、片瀬部落内の石。一、制作その他の経費、五百円也。一、建立世話人、深田徳三(旧私立女学校長)、一、詩碑の建立について。桜木実像(大分新聞竹田支局長)、阿南吉夫(旧ポリドール社長の親戚)。桜木実像氏が級友ポリドール・レコード社長阿南氏を東京に訪問の際、阿南氏曰く「私は郷里竹田の為にに何か残したい」との話から、桜木氏が「では荒城の月の詩碑を滝廉太郎のゆかりの地、岡城趾に建立しては」との提案により、・中略・早速ポリドールより土井先生に「荒城の月」の詩を揮毫方お願い致しましたところ、先生は快く引き受けられ、大中小の三枚送付して戴き、そのうちの一枚を石碑に刻みました。

とのことである。その除幕式には晩翠翁は出席しなかったが、それが縁故となって滝廉太郎の四十周年記念(昭和十七年十月二十三日)と四十五周年記念(昭和二十二年六月二十九日)に二回も竹田市を訪れている。>以下略

 これを読むと、晩翠翁は昭和十七年十月二十三日に、はじめて岡城を訪れているようである。


  その 2

 

 会津若松市の鶴ヶ城趾に於ける「荒城の月」の建碑については以下のように書いている。抜粋して紹介する。

<次に会津若松市の鶴ヶ城趾に於ける「荒城の月」の建碑については、その一発起人の早川喜代治氏の書翰にその詳細が語られている。・中略・

  二、戦災に会い、又、ご承知の如く五児を失い悲嘆の極の先生を慰めようと、昭和二十一年秋、私は先生を会津東山温泉にお呼びしました。ただでは出て来られないと思い、若松市教育委員会主催の荒城の月四十七周年記念音楽会をやるとて呼びました。会津高女で開催したのでしたが、その時、「只今、皆さんの歌ってくれた私の歌のモトイは実は鶴ヶ城と青葉城の二つですよ。二十二歳、二高生の時、修学旅行に来て鶴ヶ城の光景を胸裏に深く印象に残した。これに青葉城を入れて、あれを二十八歳の時、東京音楽学校のたのみでつくりました。」と挨拶されました。私共は大いに驚喜し、その晩東山の拙宅で即座に詩碑建設の承諾を求めました。そのとき先生は感激されて、顔を紅潮され、正座されて、「感激にたえません、私一生の光栄です。」と挨拶されました。・中略・

 ちなみに鶴ヶ城趾の「荒城の月」の筆蹟は、晩翠先生が東山温泉で、会津銘酒の会州一と花春に陶然とされて揮毫されたものの由である。>

 ここに、晩翠翁が「荒城の月」を作詩したときの様子が語られているものと思われる。


  その 3

 朝日新聞2000年1月5日の宮城県内版の中で「荒城の月」の100年を書いています。そこでは、晩翠翁が作詞後30年過ぎた頃、生徒に詩の舞台を尋ねられ、三つとも本当だと答えられたというエピソードが紹介されています。これが晩翠翁の晩年の心境であったろうと思われます。白鳥省吾は書簡にてその詩碑の建立に携わった方々からの返答を『晩翠献詩』(昭和三十二年十一月十九日・大地舎発行)に書いていましたので、三回に渡って紹介しました。今回のにて「荒城の月」は終わりとさせていただきます。

<仙台の青葉城趾の「荒城の月」の詩碑は旧天守閣趾であって、図南の鵬翼を象どる大鷲の銅像の下である。詩碑の台石は晩翠草堂の「天地有情」の石と共に二高尚志会員が福島県相馬郡宇田川の上流から運んできたものの由、・中略・詩碑のほとりに立てば、仙台全市の繁栄が一望され、観光としても画竜点睛であり、月光松籟昔ながらにして、誰しも低徊顧望去る能わざるものがあろう。>

*引用文中 「詩碑は旧天守閣趾」とあるが、青葉城には天守閣が無かった。


* 参考資料『みやぎの文学碑』平成六年五月九日・財団法人宮城県芸術協会発行

* 引用図書・詩集『晩翠献詩』(昭和三十二年十一月十九日・大地舎発行)

* 「こほ゛れ栗」と言うタイトル名は『蒼空を見る』(白鳥省吾著)から採ったもので、あまり知られていないことがらを探して載せていきたいと思っている。

                                                                   以上 案山子    

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 W. 会報発行にあたって

 「白鳥省吾を研究する会」が昭和53年春に発足してから、今年で21年目になるわけですが、この間、会としての活動は無かったに等しい。ほとんど故白鳥敬一先生お一人でその役を務めておられたわけでして、他の会員といっても私一人で、大変頼りない存在であったと思われる。私は大学の通信教育の卒業論文でお世話になり、それ以来のおつき合いであったが、盆暮れに時々音信を交わすだけで、独りデータの蒐集に当たっていた。敬一先生は白鳥省吾生誕100年祭、「白鳥省吾の詩と生涯」、等々に尽力なされておられて、私にも書籍を送って頂いたり、編集委員にとか種々お声をかけて下さいましたが、その当時は忙しさにかまけてお手伝いできなかったのが、今となっては悔やまれるしだいである。

 この度、敬一先生の生前のお骨折りと築館町の誠意あるご対応、ご尽力によって「白鳥省吾記念館」が開館の運びとなり、夫人ナヲエ先生の手により、遺稿集「白鳥省吾のふるさと逍遙」が出版の運びとなったのを記念して、このホームページを開設したしだいである。これをもって、これまでの無精のお詫びの一欠片に値すればありがたいと思う次第である。また、「白鳥省吾記念館」の開館に尽力された団体、個人、関係者の皆様に敬意を表するものである。

ホームページ管理人


 X. その他

 会報などと堅苦しい名前を付けましたが、たいした事を考えているわけではありません。白鳥省吾について、一般に知られていないことを紹介していきたいと思っています。なお、白鳥省吾に関して有用な情報をお寄せ下さいました方の記事も載せたいと思っております。白鳥省吾に興味を持っている方、会員になりたい方等、メールをお寄せ下さい。今後ともよろしくおつき合いの程お願い申し上げます。

  「白鳥省吾を研究する会」事務局 y-sato


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最終更新日: 2006/08/28